2009年08月25日

La malinconia del detective

ゲーデルの不完全性定理は、ある論理体系はそれ自身の無矛盾性を証明できない、と述べていますが、ここでのポイントは、「論理体系自身の枠組みの中では、それが証明できない」ということです。
その論理体系自身の構造を扱うさらに大きな論理体系の中では、必ずしも決定不可能ではありません。
この「論理系の入れ子」について考える点で分かりやすいのが、「後期クイーン的問題」です。

この「クイーン」とは、推理小説の世界では超有名なエラリィ・クイーンであります。
後期クイーン的問題とは、乱暴に言ってしまえば、名探偵の推理の限界についての問題と言えるでしょうか。

ここで、推理小説における、名探偵の役割について考えてみます。
名探偵とは言うまでもなく、事件に巻き込まれ(あるいは依頼され)、事件を調査する存在です。証拠を調べ、矛盾を見抜き、トリックを暴き、事件の驚くべき真犯人と、それに至るロジックとを明らかにする、それが名探偵の存在意義であると言えるでしょう。

ここで名探偵に要求されることは、彼(名探偵を男性とします)は事件に対してメタレベルにいなければならない、ということです。つまり事件の構造の外部におり、証拠と論理の客観性かつ正当性を保証しなければなりません。

後期クイーン的問題とはまさにこの部分に関する問題提起です。つまり、

    「名探偵は、自分の論理の正当性をいかにして保証できるのか」

ということです。
読者に対しては、クイーンの小説(国名シリーズ)の特徴でもある、「読者への挑戦状」でこれは保証されます。

    「以上で真犯人を推理するのに必要な証拠はすべてあがっている。犯人を当ててみたまえ」

というあれです。しかしこれは、小説という世界の外部にいる(メタレベルにいる)読者に対するものであり、小説という世界の内部にいる名探偵が、どのようにしてこれを保証(あるいは証明と言ってもいいですが)できるのでしょうか。

たとえばここで名探偵が容疑者Aを犯人として挙げ、論理的に矛盾のない推理でもってそれを「証明」したとしましょう。このまま小説が終わっていればめでたしめでたし、ですが、作者が悪ふざけして、最後の最後にこんな一文を加えたらどうでしょうか。

「−−翌朝、探偵の推理を称賛する新聞を読みながら、Bは笑みをこぼした。用意した証拠は目的どおりの効果を上げた。探偵が簡単にAを犯人だと考えたのはいささか拍子抜けだったが、どちらにせよこちらの意図したとおりに彼は動いたのだ。」


とまあこんな風に、「事件のすべては、名探偵がAを犯人と推理するようにBによって仕組まれたもの」という可能性は、事件と同じ世界(レベル)にいる限り否定しきれません。仮にBにまで推理が至ったとしても、それもCによって仕組まれ、それすらもDによって・・・と、どこまでも続くことになります。

実際のクイーンの作品では、「十日間の不思議」「九尾の猫」などで、「名探偵の推理までもが道具として犯人に利用される」という事態に直面します。ここに至って名探偵は事件に対して神の視点(メタレベル)であるどころか、事件の一道具にまで引きずり下ろされ、「自分の論理がミスリードされていない」などと考えることはできなくなります。

日本のドラマでも、「TRICK 2」の「サイトレイラ−編」が興味深いです。ていうか、ネットで、サイトレイラ−編と後期クイーン的問題を絡めて論じてるのがあって、本稿を思いついたってところもあるのですが。

さて、この、

    「小説という体系の『内部』において、名探偵は自分の推理の正しさを証明できない」

というのが、ゲーデルの不完全性定理の、

    「無矛盾な論理体系は、自分自身の無矛盾性を証明できない」

と共通するところです。そして両方とも、

    「証明の内容ではなく、その手続き自体の正確性が問題である」

ということなので、

    「その手続き自体を考慮するメタレベルにおいては、決定可能である」

ということも興味深いところです。

さて、この後期クイーン的問題について考えていて一つ浮かんだことがあります。
映画「マトリックス」も、これとよく似た構造なんじゃないか、ということです。

続きます。
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posted by Nosce at 22:08| Comment(6) | cogito | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月24日

Sono un bugiardo?

学生の頃、国語のテストが苦手でした。
漢字の読み書きとかはいいんですけど、「この時の主人公の気持ちを記せ」とか、「内容を○○文字以内でまとめろ」とか。
物語の解釈なんて人それぞれなのにそれを画一的に考えろなんてナンセンスだ、というのはオーバーかもしれませんが、文法とか表現とか修辞みたいな、構造としての国語ではなく、一作品について正解と間違いを定めるのは何か違う気がして。

そんなわけで、数学のテストのほうが得意というか好きでした。個人の解釈ではなく、論理がものをいうという意味での分かりやすさ。どれだけ難解であっても必ず数学には答えがある。選択は文系なんですが数学は楽しかったです。

そんなわけで、「数学には必ず答えがある」ということを否定する定理があると知ったときは驚いたものです。それが「ゲーデルの不完全性定理」というものです。

※文系の素人なので、厳密な数学のお話ではありません。理系の人は「トンチンカンなことをほざいてやがる」と思ってください。


さて、不完全性定理は二つの定理からなっています。

    第1不完全性定理:
    「無矛盾な論理体系においては、証明も反証もできない命題が存在する」


    第2不完全性定理:
    「無矛盾な論理体系は、自分自身の無矛盾性を証明できない」


第1不完全性定理について必ずといっていいほど引き合いに出されるのは、「自己言及のパラドックス」というものです。

  「私は嘘つきだ」

これの真偽が証明できるか、ということです。

まず、これが偽であるとします。つまり、

  「『私は嘘つきだ』は嘘」=「私は正直者」

となります。しかし、正直者である「私」が、「私は嘘つきだ」と言っているわけで、これは矛盾します。
では、この命題は真であるでしょうか。しかしそうすると、

  「嘘つきが『私は嘘つきだ」と嘘をついている」=「私は正直者」

となります。これも命題と矛盾します。
このように、命題の取り方によっては、真とも偽ともいえない問題が出てくる、ということです。

ゲーデルは、これに似た方法を使いました。彼の命題を

  G:「このGは証明できない」

とします。
このGが偽であるとします。この場合は

  「Gは証明できる」

となりますが、命題そのもの「Gは証明できない」に矛盾します。
論理体系が無矛盾という条件においては、Gの反証はできません。
では、Gは真ということになるでしょうか。
しかし命題自身が、Gは証明できないと述べているので、真である証明はできません。
つまり、

  「Gが真である証明はできない。その反証もできない」(第一不完全性定理)

ということになります。(決定不可能性)
誤解されやすいことですが、「真である」ということと、「証明できる」は同義ではありません。
また、全ての命題が決定不可能であるということでもなく、そういう命題も含まれる、という主張です。


さて、第二不完全性定理についてはどうでしょうか。
無矛盾な論理体系をTとして、Tが無矛盾であることが「証明できる」(決定可能)とすると、

  「Tに含まれるGも決定可能である」

ということになりますが、第一不完全性定理からGの決定不可能性は証明されているので、矛盾が生じます。
というわけで、Tの系の中では自分自身の無矛盾性を証明することはできません。(第二不完全性定理)

このゲーデルの不完全性定理は、当時「数学の完全性」を証明しようとしていたヒルベルト・プログラムというものに重大な影響を与えたり、人間の論理の限界を示したと評判になったり、とにかく大変な影響を与えたといわれています。


この不完全性定理とよく似ているもので、その理解の一助にもなりそうなものがあります。
推理小説における、「後期クイーン的問題」というものです。

次回に続きます。
posted by Nosce at 22:27| Comment(0) | cogito | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月23日

RIP



今更ながら マイケルのお話です。

いい時代になったもので、ネットで探せばいくらでもマイケルの動画を見ることができます。
毎日のように見ているのが2つ。
1995 MTV Award Performanceと、上の、smooth criminal です。

MTVのはトータル15分くらいあるし、smooth criminalは9分以上あるんですが、何度見ても時間を忘れます。

マイケルといえばダンスパフォーマンスが有名で、Thriller のゾンビダンスであったり、Billy Jean のムーンウォークであったり、そしてこの smooth criminal のゼロ・グラヴィティなのですが、この 45度傾くパフォーマンスだけはさすがに仕掛けが必要みたいです。

実は靴に仕掛けがあって、かかとをフックで引っかけて体を支えている、ということらしいです(ちなみにマイケルはこれの特許を取っているとか。)

なんだ仕掛けがあるのか、と思うかも知れませんが、むしろかかとのフックだけであれが成立することが驚くべきで、一度だれかにかかとをしっかり押さえてもらってやってみれば分かりますが、体をまっすぐにして45度傾け、そこから戻ろうとすると、アキレス腱と背筋に半端ない負担がかかります。っていうか、常人には無理なんじゃないかと。

まあこのビデオ自体が20年前(!)なので、今だったらワイヤーとか使うのかも知れませんが、じゃあマイケルの時代にワイヤーが実用化されていたとして、彼がそれに頼ったかというと、それもないかなと自分では思います。それは、ライブでの再現性ということを考えてです。

お客さんが「これは映像のトリックだよなあ」と思っていることが、ライブで実際に目の前で起こる。エンターテイナーとしては何とかして実現できるのであれば、やらない手はないでしょう。フックという最低限の仕掛けでやってのけたことが、逆にすごいなと思うのです。

音楽もそうですが、特にダンスパフォーマンスなんてのは、時間と共にどんどん変化していって、数年前のはもうショボい感じがする、と思うのですが、マイケルのは20年前でも全然飽きないんです。もう一方のMTV Award の方も、まさに完璧なエンターテイメントという感じ。改めて、この人がものすごい人だったんだというのを実感します。

5歳の頃から45年間、良くも悪くも世界に注目された彼の人生が、彼自身にとって幸せであったのかどうか、想像することもできませんが、2ヶ月経ってもいまだ埋葬も許されないのはあんまりです。愚かなマスコミのせいで、次から次へとゴシップも出るのでしょう。早く休ませてあげて欲しいと思います。
posted by Nosce at 23:42| Comment(0) | cogito | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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