その論理体系自身の構造を扱うさらに大きな論理体系の中では、必ずしも決定不可能ではありません。
この「論理系の入れ子」について考える点で分かりやすいのが、「後期クイーン的問題」です。
この「クイーン」とは、推理小説の世界では超有名なエラリィ・クイーンであります。
後期クイーン的問題とは、乱暴に言ってしまえば、名探偵の推理の限界についての問題と言えるでしょうか。
ここで、推理小説における、名探偵の役割について考えてみます。
名探偵とは言うまでもなく、事件に巻き込まれ(あるいは依頼され)、事件を調査する存在です。証拠を調べ、矛盾を見抜き、トリックを暴き、事件の驚くべき真犯人と、それに至るロジックとを明らかにする、それが名探偵の存在意義であると言えるでしょう。
ここで名探偵に要求されることは、彼(名探偵を男性とします)は事件に対してメタレベルにいなければならない、ということです。つまり事件の構造の外部におり、証拠と論理の客観性かつ正当性を保証しなければなりません。
後期クイーン的問題とはまさにこの部分に関する問題提起です。つまり、
「名探偵は、自分の論理の正当性をいかにして保証できるのか」
ということです。
読者に対しては、クイーンの小説(国名シリーズ)の特徴でもある、「読者への挑戦状」でこれは保証されます。
「以上で真犯人を推理するのに必要な証拠はすべてあがっている。犯人を当ててみたまえ」
というあれです。しかしこれは、小説という世界の外部にいる(メタレベルにいる)読者に対するものであり、小説という世界の内部にいる名探偵が、どのようにしてこれを保証(あるいは証明と言ってもいいですが)できるのでしょうか。
たとえばここで名探偵が容疑者Aを犯人として挙げ、論理的に矛盾のない推理でもってそれを「証明」したとしましょう。このまま小説が終わっていればめでたしめでたし、ですが、作者が悪ふざけして、最後の最後にこんな一文を加えたらどうでしょうか。
「−−翌朝、探偵の推理を称賛する新聞を読みながら、Bは笑みをこぼした。用意した証拠は目的どおりの効果を上げた。探偵が簡単にAを犯人だと考えたのはいささか拍子抜けだったが、どちらにせよこちらの意図したとおりに彼は動いたのだ。」
とまあこんな風に、「事件のすべては、名探偵がAを犯人と推理するようにBによって仕組まれたもの」という可能性は、事件と同じ世界(レベル)にいる限り否定しきれません。仮にBにまで推理が至ったとしても、それもCによって仕組まれ、それすらもDによって・・・と、どこまでも続くことになります。
実際のクイーンの作品では、「十日間の不思議」「九尾の猫」などで、「名探偵の推理までもが道具として犯人に利用される」という事態に直面します。ここに至って名探偵は事件に対して神の視点(メタレベル)であるどころか、事件の一道具にまで引きずり下ろされ、「自分の論理がミスリードされていない」などと考えることはできなくなります。
日本のドラマでも、「TRICK 2」の「サイトレイラ−編」が興味深いです。ていうか、ネットで、サイトレイラ−編と後期クイーン的問題を絡めて論じてるのがあって、本稿を思いついたってところもあるのですが。
さて、この、
「小説という体系の『内部』において、名探偵は自分の推理の正しさを証明できない」
というのが、ゲーデルの不完全性定理の、
「無矛盾な論理体系は、自分自身の無矛盾性を証明できない」
と共通するところです。そして両方とも、
「証明の内容ではなく、その手続き自体の正確性が問題である」
ということなので、
「その手続き自体を考慮するメタレベルにおいては、決定可能である」
ということも興味深いところです。
さて、この後期クイーン的問題について考えていて一つ浮かんだことがあります。
映画「マトリックス」も、これとよく似た構造なんじゃないか、ということです。
続きます。
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