漢字の読み書きとかはいいんですけど、「この時の主人公の気持ちを記せ」とか、「内容を○○文字以内でまとめろ」とか。
物語の解釈なんて人それぞれなのにそれを画一的に考えろなんてナンセンスだ、というのはオーバーかもしれませんが、文法とか表現とか修辞みたいな、構造としての国語ではなく、一作品について正解と間違いを定めるのは何か違う気がして。
そんなわけで、数学のテストのほうが得意というか好きでした。個人の解釈ではなく、論理がものをいうという意味での分かりやすさ。どれだけ難解であっても必ず数学には答えがある。選択は文系なんですが数学は楽しかったです。
そんなわけで、「数学には必ず答えがある」ということを否定する定理があると知ったときは驚いたものです。それが「ゲーデルの不完全性定理」というものです。
※文系の素人なので、厳密な数学のお話ではありません。理系の人は「トンチンカンなことをほざいてやがる」と思ってください。
さて、不完全性定理は二つの定理からなっています。
第1不完全性定理:
「無矛盾な論理体系においては、証明も反証もできない命題が存在する」
第2不完全性定理:
「無矛盾な論理体系は、自分自身の無矛盾性を証明できない」
第1不完全性定理について必ずといっていいほど引き合いに出されるのは、「自己言及のパラドックス」というものです。
「私は嘘つきだ」
これの真偽が証明できるか、ということです。
まず、これが偽であるとします。つまり、
「『私は嘘つきだ』は嘘」=「私は正直者」
となります。しかし、正直者である「私」が、「私は嘘つきだ」と言っているわけで、これは矛盾します。
では、この命題は真であるでしょうか。しかしそうすると、
「嘘つきが『私は嘘つきだ」と嘘をついている」=「私は正直者」
となります。これも命題と矛盾します。
このように、命題の取り方によっては、真とも偽ともいえない問題が出てくる、ということです。
ゲーデルは、これに似た方法を使いました。彼の命題を
G:「このGは証明できない」
とします。
このGが偽であるとします。この場合は
「Gは証明できる」
となりますが、命題そのもの「Gは証明できない」に矛盾します。
論理体系が無矛盾という条件においては、Gの反証はできません。
では、Gは真ということになるでしょうか。
しかし命題自身が、Gは証明できないと述べているので、真である証明はできません。
つまり、
「Gが真である証明はできない。その反証もできない」(第一不完全性定理)
ということになります。(決定不可能性)
誤解されやすいことですが、「真である」ということと、「証明できる」は同義ではありません。
また、全ての命題が決定不可能であるということでもなく、そういう命題も含まれる、という主張です。
さて、第二不完全性定理についてはどうでしょうか。
無矛盾な論理体系をTとして、Tが無矛盾であることが「証明できる」(決定可能)とすると、
「Tに含まれるGも決定可能である」
ということになりますが、第一不完全性定理からGの決定不可能性は証明されているので、矛盾が生じます。
というわけで、Tの系の中では自分自身の無矛盾性を証明することはできません。(第二不完全性定理)
このゲーデルの不完全性定理は、当時「数学の完全性」を証明しようとしていたヒルベルト・プログラムというものに重大な影響を与えたり、人間の論理の限界を示したと評判になったり、とにかく大変な影響を与えたといわれています。
この不完全性定理とよく似ているもので、その理解の一助にもなりそうなものがあります。
推理小説における、「後期クイーン的問題」というものです。
次回に続きます。
【cogitoの最新記事】

